HP「Seeking His face...(主の御顔を慕い求めて)」へ/


Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


神様が私達を選び、名前を呼んで導いて下さっている

この前の日記でヨハネ15:15を引用し、イエス様は私達を「友」と呼んで下さることを書きました。日曜礼拝のメッセージでもヨハネ15章が引用されたので、御霊の一致かしらとちょっと嬉しくなりました。^^下記は(私が通常使っている)口語訳です。

わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
(ヨハネ15:12-16)

私が信仰に入ったばかりの頃、私が神様を選んだのではなく「神様が私を選んで下さった」ことを知り、何かそれってもの凄いことだなと驚きました。そして、それは信仰初心者だった私の心にストンと入り、それ以来ずっと私は神様から特別に愛されているということを日々実感するようになりました。

下記のイザヤ書エレミヤ書からの引用にもありますが、神様は私達が生まれる前から私達を知り、生まれた時から導かれ守られていたと言うことにも更に驚きました。私は生まれる前から神様に知られ、私が神様をまだ知らなかった頃から導かれていたと言うことなんですね。。

ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
(イザヤ46:3)

「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
(エレミヤ1:5)

ノンクリスチャン時代、私には幸運の女神がついているからラッキーだ、くじ運も良いし、、と思っていました。^^;辛いことも何度かありましたが、いつも自分を支えてくれる人が必ず現れました。今思えば、私が想像していた幸運の女神なんかではなく、私が気が付かなかっただけで、本物の神様が既に私を導いて下さっていたのかも知れません。。

門からはいる者は、羊の羊飼である。
門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
(ヨハネ10:2-5)

救われた今、イエス様は私の羊飼いです。主はそれぞれの羊の名前も声も性格もご存知で、私達の前に立ち名前を呼んで導いて下さっています。羊である私達は、弱く単独では何も出来ません。羊は羊飼いの声を聞きついて行けば安全で間違いありません。

人間は自由意思が与えられています。でも、我が強すぎると聖霊様が働かなくなるので要注意です。私は随分昔、逆らって自分の我に従い最悪の状態に陥った痛い経験があります。私はそれ以来、二度と神様を悲しませることがないようにしようと決心しました。

長い信仰生活の中で何度か大きな試練が与えられましたが、その中で神様の愛を深く知ることが出来、神様に対する信頼と確信が増し加わったのです。今は昔のように我を張り、突っ張ることはありません。祈ってお任せして、御声に聞き従う、それが一番良い方法だと分かっているからです。

分かっていても、『神様の「時」っていつ?』と思う時があります。私の希望の「時」は、必ずしも神様の「時」とは一致しません。^^;色々なことを祈っていますが、壊れた時計を修理に出したならば(修理前に)持ち帰ってはいけません。(笑)(←これは牧師先生の分かり易い例えです。)祈って委ねたのであれば信頼して待つしかありません。^^

↓ランキングに参加しています。皆様のクリックが書く励みになります。どうぞよろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村