HP「Seeking His face...(主の御顔を慕い求めて)」へ/


Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


リバイバルの為に

この前の土曜日、早天祈祷会後の有志でのお祈り後みんなで歓談していたのですが、その後話の流れで信仰の大先輩のT姉とずっと話をしていました。私が大学生だった頃からの長いお付き合いです。昨年から早天祈祷会に参加し、お祈りをしていくうちに教えられ導かれたこと、それによる私自身の環境や心の変化などを色々と話していました。

教会では私達の町のリバイバルについて祈っていますが、昨年の早天祈祷会で祈っている時、私自身の悔い改めを導かれたと同時に、リバイバルが起こる為には教会自身、つまり兄弟姉妹みんなの悔い改めを神様が求めておられることを知りました。でも、自分を棚に上げてそんなことは言えず、心の中にしまっておきました。最近N姉にそのことを話し、土曜日にT姉にも話しました。

T姉は、私が話すまでもなく、既に同じことを導かれていたようです。ましてや牧師先生が導かれていないことはなく、それもあって、講壇に大きな掛け軸(毛筆で御言葉が書かれている)がかかっていることを知りました。私は、御霊は一つなので、語られていることは本当に一致しているなと改めて感じ、私が神様に語られたことを重荷に思う必要は全くなかったのだと思いました。

バジレア・シュリンクの『神の現実』という本に書かれているような、すごい数々の奇跡が私達の教会の初期の頃には起こっています。もちろん今でもそうなのですが、途中から教会に来た人達にとっては、恵まれた成熟した大人の教会の印象を受けると思います。でも、初代教会の人達のような、ハングリー精神のようなものが足りないかも知れないと思いました。

今年早天祈祷会を再開し、再び導かれたことは、やはり教会(私達一人ひとりの)悔い改めと神様に対する飢え渇きの必要性でした。私達は恵みに慣れ過ぎ、あまりにも温室の中にいすぎたのかも知れません。聖書の初代教会のごとく、牧師先生やご年配の方々が若かった頃には、みんなが貧しかったかも知れませんが、サラリーの殆どを教会の為に喜んで捧げていたと聞いています。当時の兄弟姉妹は、自分達の教会を建てる為に本当に熱い思いを持っていたのです。

今は光が丘公園になっていますが、戦後進駐軍の米軍キャンプがあった所で、当時そこで働く日本人食堂で、先代の牧師先生が伝道を始めたのが教会の始まりでした。駅前での路傍伝道中に、敵国の宗教を伝道するとは何事だとナイフを突きつけられるようなこともあり、御霊に満たされた先生の目を見るだけで後ずさりをしたという話も聞いています。まさに伝道は命がけでした。

先代の牧師先生がまだ一般信徒だった頃、森の中で『地にて一人のたましいが救われるならば、天にて大いなる喜びあるべし』という稲妻のように大きな声が、脳髄を貫くように響いて来たことがきっかけで献身を決心されました。(口語訳では多分この箇所だと思いますので、下記をご参照ください。)町、日本、世界のリバイバルが起こる為には、まず私達一人ひとりのリバイバルが重要なのだと痛感しています。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。(ルカ15:10)