HP「Seeking His face...(主の御顔を慕い求めて)」へ/


Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


原点に返って

ここのところ、土曜日の早天祈祷会もとても楽しみにしています。祈祷会の後の有志での祈り、又その後のコーヒーと(何故か)りんごを頂いて、日常のことから信仰の話を聞いたり話したりがとても楽しく、特に証を沢山聞いた後などは霊的な喜びで一杯になります。

今日は普通に帰って来たのですが、先週はN姉の証を聞いているのが嬉しくて、15:30まで教会にいました。(笑)信仰歴46年なので、信仰的にも大先輩です。彼女は本当に驚くべきわくわくする証を沢山持っています。記憶が新しいうちに、彼女から聞いた証を又書きたいと思っています。

N姉や他の姉妹からも聞いたのですが、教会の中で神様の証をすることを禁じている教会があるという。私は耳を疑いました。特に私は、神様から「証を自分の心の中にしまっておくことは罪、HPを作って証を書くように」と言われて12年半前にHPを始めたからです。

ノンクリスチャンの歌の先生やY君にも、「こういうことがあったけど、神様に祈ったらこうなった」という話は、証という意識はないのですが、日常会話の中で普通にしています。ただ、私の実姉や義兄は、神様を信じる人の気が知れないと言う人達なので話しませんが・・。

昨年の日記を見ていたら、昨年のイースターの時にA兄と教会で話し込んで、教会で夕飯まで御馳走になったことが書いてありました。(笑)教会は私にとって実家以上の拠り所です。A兄弟が私が教会に来た当時のことを覚えていて、「神様が(私を)とらえた、つかまえたって感じに見えたよ。」と言われました。

8月から早天に通うようになって、本当に神様が私に迫って来るような、変な表現かも知れないのですが、必死で捕まえられたという感覚を覚えています。ちょっと前までは、「神様の手足として用いて下さい。私が具体的に何をしたら良いのか、わかるように教えて下さい。」と祈っていましたが、そのように確かに導かれているのです。

ちょっと前にホームページのタイトルを変えようと思い、祈って委ねていました。ドイツ語の讃美(M姉が日本語に訳したもの)のあるフレーズが心に浮かんで、それを英語にしようかと思っていましたが、ピンと来ないまま数週間経ちました。そして、今週から読んでいた信仰書から、更に神様が私に訴えかけられているような迫りくるものを感じました。

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。(?歴代誌7:14)

昨年の早天祈祷会の時にも導かれたことですが、ああして下さいこうして下さいという利益を求めるお祈りではなく、主御自身を求める祈りが本当に祈ることなのだということ。10年前に1年半失業していた時、気に入った自分の仕事やポジションを得ることに希望を置くのではなく、主御自身に希望を置きなさいとハッキリ示されました。その後間もなく仕事が与えられました。

主御自身に希望を置くということは、その時のことだけでなく、今も変わらずそういう気持ちです。主に希望を置くことで失望させられることは絶対にないからです。ここ数か月は、もっと主に近づきたい、もっと主を知りたい、もっと主と深く交わりたい、主にもっと用いられたいと思うようになっていました。

下記の聖句は、今の私の気持ちにピッタリだと思いました。私は原点に立ち返って、主が私になして下さったことを証し続けたいと思いました。新しいHPのタイトルは下記の御言葉から取りました。ちょっとわけのわからないドイツ語のタイトルでしたが(苦笑)、もっとシンプルなタイトルに近いうちに変えたいと思います。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。(詩篇27:8)