今朝は喉の調子が悪かったので声楽のレッスンも聖歌隊も休み、毎月最後の聖日は証会なのでそれに間に合う時間に教会に行きました。お天気も良く、自転車だったのであっという間に到着しました。最近では自転車に乗るのも大分慣れて来てとても快適です。(^_^)
遅れて来たので、玄関側の椅子にしばらく座っていましたが、アッシャー役の姉妹が私の親しい姉妹の隣の席に通して下さいました。礼拝後のランチの時に、色々な話をしているうちに、話の流れで私の近況や仕事のことを話しているうちに、色々な思いがあり涙がポロポロこぼれて来ました。泣くつもりは全然なかったのですが、昔から私を良く知ってくれている姉妹だからだと思います。
今日の礼拝のメッセージを聞いているうちに、私の祈りの答はこれだとはっきりとわかったことをシェアしたかったのです。私は迷わず決心がつきました。きっかけとなったのは下記の御言葉です。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイ6:19-21)
私は比較的裕福な家だったのでお金に苦労することはありませんでしたが、OLになったばかりの頃初めて貧乏な暮らしを経験しました。冷蔵庫が壊れるたびに教会に電話してお古の冷蔵庫をもらったり、今はKlavinovaですが、当時は教会から貰った足踏みのオルガンでした。必要な物は祈る前から与えられるという生活で、神様のお恵みの中で本当に幸せな毎日でした。
仕事も、何度か転職してはキャリアアップをしサラリーも上がって行きました。9年前の1年半の失業は精神的に辛かったですが、今の会社に入社しあらゆることで恵まれて来ました。それが普通のことになってしまったのかも知れません。
私はメッセージの御言葉にはっとしました。結局ヨブ記にあるように、『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』なのだと思いました。私の今の祝福と繁栄は私に対する報酬ではなく、神様の一方的な御愛によって与えられているものなのです。
だから、これは私のものと主張出来るものは何もありません。私は、主に信頼して自分が握っているものからは全部手を離し、主がこちらの道だと導かれた方に進んで行く事に決めました。いずれ大まかなことはお話すると思いますが、今日のメッセージで主のお導きがわかったのです。