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Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


イエスキリストの御名による権威

(1月21日の副牧師先生によるメッセージサマリーです。)

代理人とは法律上の代理権を持ち、本人に代わって意思表示をしたり意思表示を受けたりする権限のある人を言います。神のみことばは、私達がイエス様の御名を使う代理人としての権威を持っていると教えています。

あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。(ヨハネ16:23)

わたしの名によって父に求めなさい。天の父はそれをあなたにお与えになりますとイエス様は言われました。これによってイエス様は私達にイエス様の御名を使う権利を与えて下さったのです。私達が新しい契約の中にあるこの権利を握って、イエス様の御名によって祈るなら、その祈りは私達の手からイエス様の手に渡され、イエス様がその祈りの責任を負って下さるのです。

父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることをよく知っています。(ヨハネ11:41-42)

天の父はいつでもイエス様の祈りを聞いて下さり、私達がイエス様の御名によって祈る時は、イエス様ご自身が祈りをしておられるのと同じなのです。イエス様は天の父の前で私達の代理となられるのです。

わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。(ルカ10:19)

悪魔は、わたしたちの後ろにある神様の権威に逆らうことは出来ません。わたしたちは権威のある者なのです。悪魔の力もこの権威に従わなくてはならないのです。悪魔はわたしたちを恐れているのではありません。イエス様を恐れているのです。悪魔はその御名を恐れているのです。悪魔はイエス様が自分を征服したということを知っています。悪魔はその御名に、イエス様と同じだけの力があることを知っています。「イエス様の名で悪霊を追い出す」。悪魔はそれを知っているのです。あなたがたがそれを知らない限り悪魔はあなたを支配し続けることが出来るのです。私達はイエス様の御名のうちにすべての暗闇の勢力に対する権威を持っているのです。

そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋をし、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。(コロサイ2:15)

私達が戦う相手である主権と力に対してイエス様が勝利して下さったのです。彼らをさらし者として凱旋の行列に加えられたのです。武装を解除されている事実、病気もわずらいもイエス様に服従するものであるという事実、イエス様の声にしたがって離れ去らなければならないのです。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
(エペソ1:20-21)

エス様はこれらの支配、権威、権力、主権を征服してこの御名を得られたのです。

御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。(ヘブル1:4)

エス様は御使いよりもさらにすぐれた御名を相続されたのです。イエス様は苦しみの牢獄にくだり、地獄にくだり、イエス様は私達の身代わりとなって死なれました。神様はイエス様を甦らせました。イエス様の霊と魂を地獄から引き上げられました。甦られた日にイエス様はすぐれた御名を相続されました。父なる神様は宇宙で最高の御名をイエス様にさずけられました。神は名誉と権威をイエス様に与えられました。

また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。(黙示1:18)

かぎを持っている者とは権威を授けられたもののことです。イエス様にはこの権威があります。天においても地においても地の下においても権威があります。

この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。(使徒4:12)

御名には救いがあります。私達の身体の癒しについても言っておられるのです。

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)

御名の力と権威のうちにイエス様は私達と共におられるのです。超自然的なしるしは、イエス様の御名に伴うのです。それらは信じている人々とともにあるのです。

ペテロは美しの門で生まれながらの足の不自由な男を見つめた時、

金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。(使徒3:6)

ペテロはイエス様の御名によってその男が立ち上がって歩くことを願いました。

たしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。(ヨハネ14:13-14)

何事でもわたしの名によって願うならばイエス様がそれをしましょうと言っておられるのです。そしてイエス様はこの男を立たせて歩かせたのです。ペテロは8年間寝たきりだった男に向かっていいました。

「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。そして床を取りあげなさい。」(使徒9:34)

すると彼はただちに起き上がった。ペテロは何か特別な力を持っていたわけではありません。それをしたのはイエス様の御名なのです。イエス様の御名はイエス様ご自身と同じように力があります。私達はこの世にあってはキリストと同じような者なのです。

その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。(1ヨハネ32:23-24)

私達は主イエス・キリストを信じるように命じられているだけではありません。私達はイエス様の御名を信じるように命じられているのです。互いに愛し合うこととイエス様の御名を信じることです。

ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る。(詩篇20:7)