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Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


マリアの信仰と赤ちゃん信者だった過去の自分から学ぶ・・・

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うちは一年中クリスマス🎄です。😄失くさないように、また、初心を忘れないように、洗礼式の写真を飾りました。😄

 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。エスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。

ヨハネ2:2-11) 

 カナの結婚式でイエス様が最初に行われた奇跡のお話です。この時の母マリアの謙遜さと言葉に注目します。これらの箇所を読むたびに、自分の信仰初期の頃のことを思い出します。まだ未熟だったからこそ、自分で判断せずに牧師先生に何でも相談していました。

下は、私がまだ信仰一年未満だった頃の「教会のある街へ」という証です。その下の引用は証の中の私が言った言葉の抜粋です。

www2.gol.com

大学を卒業後、私はいずれ英語の教師になるつもりで、引き続きアルバイトで塾の講師をしていました。 とても不規則な時間帯での仕事でしたので、再び体調を崩してしまいました。牧師先生のご指導で、 そこの塾を辞め、一ヶ月間休むように言われましたので、その通りにしました。さて一ヶ月たったので、 牧師先生にお電話し、「先生、一ヶ月経ってしまいましたがどうしたら良いでしょうか。」とうかがったら、 「姉妹、そんなところに一人でいてもしょうがないでしょ。W市に越して来なさい。」とのことでした。 私は、学生時代に貯めていた貯金もゼロになっていましたから、「先生、私は引っ越しの費用もありません。」と言うと、「教会が払うから。」とおっしゃって下さいました。

又、お金が無くなった時に祈りました。

「イエス様、私はお金が無くなりましたが、 どうしたら良いでしょうか。」と。すると、「箴言15章16節」という言葉が心に響いてきました。 私は、旧約聖書を全部読んだわけではないので、何が書いてある場所なんだろうと思いながら、 聖書のページをめくるわけでもなく、ぱっと開けてぱっと見たページがまさにその箇所だったので、 もの凄く驚きました。そこには、「少しの物を所有して主を恐れるのは、 多くの宝をもって苦労するのにまさる。」という御言葉が書いてありました。私は、 神様の大きな愛に触れた喜びで一杯になり、ぽろぽろと大粒のうれし涙を流しながら、 「ありがとうございます、イエス様。ありがとうございます。」と繰り返すだけでした。

そうしていると、電話が鳴り、献身者のSさんが「お金は大丈夫ですか?」と聞いてきました。 今度教会に来たときにと言うことで、教会でお金の入った茶封筒を受け取りました。 当時の私の生活費としては、その金額は多すぎるでもなく少なすぎるでもなく、ちょうど良い金額でした。

そして、又、下のリンクは、救われて一年後位の「祖父のお葬式」という証です。

www2.gol.com

下は、その中の抜粋です。

お葬式の前夜のことです。テレビも電話の天気予報でも、明日は雨、 それも大雨だと言っていました。母はウンザリしていました。 父方の祖父の時はお天気が悪くて大変だったからです。私は母にこう言いました、 「大丈夫よ、お母さん。明日はお天気になるから。」と。母は信じられないと言った顔をして、 「そんなわけないよ。天気予報でああいっているんだから。」と言いました。それは当然のことでしょう、 晴れるという確かな保証は何にもないのですから。でも、私にとっては、 お葬式の時にみんなが不自由しないようにお天気になるのは、神様の御心だと信じて疑いませんでしたから、 「イエス様がお天気にしてくれるんだから、"絶対に"大丈夫だから安心して。」 とキッパリと母に言えたのです。

翌朝、5時頃目が覚めました。そしたら外は小雨が降っていました。でも私は、 「何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。 そうすればそのとおりになるであろう。(マルコ11章24節)」と信じていましたので、 「イエス様、私はお天気にして下さるようにお願いしました。今小雨が降っていますけれど、 お葬式の時には必ず晴れにして下さいましたから感謝です。」と"先付け"で、 感謝のお祈りを捧げました。6時台になっても状況は変わりませんでしたが、同じお祈りを捧げました。 

結局、お葬式当日は雨が降らず、完全に偶像崇拝から守られ驚くべき奇跡を見せて頂きました。先日或る姉妹にこの話をし「明日は晴れるから大丈夫だと、良くキッパリ言えたなと思う。^^;」と言ったら、「あら、今もそう言えなきゃ。^^」と言われてしまいました。^^;

私は幼子の信仰を持っていると思っていましたが、昔は全く疑わずにもっと真っ直ぐな幼子の信仰を持っていました。私は大人になりすぎてしまい、「ぶどう酒がなくなりました。」「〇〇です。どうしたら良いですか?」がなくなっていたのかも知れません。

どうしたら良いですかという謙遜な気持ではなく、自分の信仰と経験から判断していたように思います。牧師先生とお話した時、「貴女は色々なことを考えてやり過ぎている」と言われたのです。でも「先生、私はいつもお任せしますとお祈りしていますよ」と。

お任せしているかも知れないが、まだ足りないとのことだったのです。^^;私は、自分の問題をイエス様の御手に乗せるイメージでずっと祈って来ました。でも、問題を抱えた自分ごと丸ごとイエス様の御手に毎日乗せて祈るようになりました。イエス様は重たいでしょうけど。(笑)

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