HP「Seeking His face...(主の御顔を慕い求めて)」へ/


Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


牧師先生と

牧師先生とは、私が礼拝では一番前に座っているので、礼拝後に挨拶を交わしたり、先生が声をかけて下さったりすることはあります。忙しい時は、ポンと私の肩を叩いて微笑まれるだけの時もありますが、とても嬉しくなります。何ヶ月か前は、挨拶後数メートル歩かれた後わざわざ戻って来られ、私に「あなたが聖歌隊で歌っている姿を見ると嬉しくなるの。」と笑顔でおっしゃって下さり、こちらも嬉しくなってしまいました。又、時々聖歌隊の練習後に事務室のMさんから「先生から」と夕飯用のおかずを頂いたり、母のような細やかな心遣いには本当に頭が下がります。

早天を始めた先週の月曜日、祈祷会〜ラジオ体操を終えて台所でくつろいでいると、牧師先生がいらっしゃいました。大人だけで300人、子供も入れるとものすごい数の信者がいるので、分刻みでお忙しい牧師先生としっかりお話をしたのは本当に久しぶりでした。礼拝後もひっきりなしの電話や面接などで本当に忙しそうです。実際私と話していた間も、献身者の人からメモや電話が・・。

私は自分の中で起こっていた数年間の様々なことを、先生に一気にお話しました。悩んでいた時の渦中ではなかったので、御報告になってしまいましたが・・・。仕事絡みのことは昨年証会で証をしましたので御存じとは思いましたが、今現在の仕事の状況や、仕事を通して学ばされていることも話しました。又、個人的にケアしていた人達から裏切られて傷ついたり、誹謗中傷をばら撒かれて悲しかったけれど、神様に祈り御言葉を与えられて慰められたこと、又完全に許すことが出来解放されたことも話しました。

先生がメッセージの中で、随分昔許せない人がいて、その人を完全に許せるまで二階から下には降りないと、押入れの中で泣きながら神様に祈り続けたら完全に許すことが出来るようになり、その人を抱きしめたくなる程の気持ちに完全に変えられた証を時々されます。これほど短時間にドラスティックに変えられた経験はないのですが、感情的にはまだ許せていなくても、許しましたと口で宣言することは重要です。何故なら、感情は後からついて来るからです。つまり神様に宣言すると、後は神様の時と方法でいつの間にか許せるようにして下さるからです。本当に自分の努力では出来ないことです。

神様は何でも祈りを聞いて下さいますが、そのような聖句の後に続いている「許さなければ私もあなたを許しません」という御言葉を無視することは出来ません。むしろそちらの方が重要です。何故ならば、自分の罪が神様と自分を隔てる障害、壁となり、お祈りが神様に届かなくなってしまうからです。でも、「許します」と告白することは、神様の御手にその問題を全託したと同時に、敵であるサタンに勝利宣言をしたことになるからです。サタンはその瞬間から、私達に指一本触れることが出来なくなります!

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
エスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。(マタイ18:21-22)

エス様は7×70=490回許しなさいと言っているわけではありません。(笑)これはエンドレスに何度でも許すようにということです。私は同じ人に2回裏切られるようなことをされたことがありましたが、一度許した人だったので2回目も許すことが出来ました。それは私の心の中だけの問題なので、その相手に話したわけではないですが・・。神様はその何千倍以上もの回数で私を許して下さっているに違いありません。(^_^;;

早天に通っているのは、もちろん祈りの課題が沢山(殆どは自分以外の人達のこと)あるからなのですが、祈りを聞いて頂く為には神様と自分との関係が正しい関係であることが最も重要だと思っています。人に対して恨みつらみネガティブな心を持ったまま、同時に神様にああして下さいこうして下さいと祈り求めることが出来るでしょうか?だから、お祈りは悔い改めと讃美から始めるものなのだと思います。