HP「Seeking His face...(主の御顔を慕い求めて)」へ/


Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


今年の御言葉

今年は元旦が新年礼拝となり、区切りの良いスタートを切ることが出来ました。今年の「御言葉のお年玉」はコリント人への第二の手紙4章15節でした。

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
(第二コリント4:15)

For all things are for your sakes, that grace,
having spread through the many, may cause thanksgiving to abound to the glory of God.(NKJ)

ところで、腕時計の電池はいつも突然切れるのですが、私の場合覚えやすいタイミングで切れています。前回は歌の先生とヨーロッパに発つ前日でした。今回は大晦日に切れました。夕方なのに昼の2時を指していたので気が付いたのです。応急処置として、近場でセール中だった2000円位のおもちゃみたいな時計を買いました。ちゃんと動いているし、新しく時を刻むと言う意味でも良い区切りかなと思いました。^^

秋くらいからずっとあれこれ考えることがあり、一つ大きな決断をしたことがあります。大学の時間割の関係や年齢のこともネックとなり、なかなかアルバイトは見つかりませんでした。上の学年になると授業も増え、更に内容も難しくなります。そうなるとますますアルバイト探しは難しく、仮にアルバイトをしても性格的に学業との両立が難しくなるのではないかと思います。

何度か面接に行きましたが不発に終わりました。仕事を選ばなければあるかも知れませんが、喜んで働けないと続かないのは分かり切っています。前回某塾の面接中に気付きがあり、神様の手が留まっているような気がしました。働かれていないと言う意味ではなく、今は神様の「時」ではないと感じたのです。結論として、今年度はひたすら学業に専念しようと決心をしました。

一昨日幼なじみのK子と車で走っていた時、〇〇明神に繋がる車の渋滞に巻き込まれました。何が祭られているか聞いたら「蛇の抜け殻」だと。^^;「蛇の抜け殻はただの抜け殻だよ。そんなのに祈っても無意味だよ。K子のことは毎日祈っていて大丈夫だから。」と言うと、「じゃあ、行かない方が良いわけだね。」と彼女。「そうよ。むしろそうして。」「うん、わかった。」と素直なK子でした。

その後、天地創造をされた神様が、日常の本当に些細なことにも心をかけて下さり、欠点だらけの自分を無償の愛で包み祈りに答えて下さっていることを話しました。むしろ人のことを祈る祈りが聞かれていることも。姪に「礼拝って何をやっているの?」とか、姪の子には「教会って何?」と言われました。証はしても伝道していない、陰で祈っているだけでは駄目だなと痛感しました。^^;

でも、友達や家族の笑顔と幸せな様子を見るにつけ、神様の祝福は祈りを通して私に関わるノンクリスチャンの人達にも流れていることを感じ嬉しくなりました。今年は色々な意味でチャレンジングな年になりそうです。今年も変わらず、ただただ主だけを見上げて前進して行くのみです。色々なことがあったとしても、クリスチャンにとっては全てが益となると信じていますから、何も心配することはありません。

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