HP「Seeking His face...(主の御顔を慕い求めて)」へ/


Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


明日はイースター

私達クリスチャンにとって、クリスマスやイースターが、コマーシャライズされた世的なお祭りやイベントのようであったら意味がないことです。

私の教会などペンテコステの教会は、おそらく、手を挙げて全身で神様を喜び讃美し、又大きな声で異言の祈りをするところが多いと思います。昨年と一昨年ウィーンのシュテファンズドムでのミサでは、儀式的ではありましたが、何十世紀にも渡って同じ神様をこうして礼拝して来たことを思うと、とても厳粛な気持になり、神様に対する畏敬の念が増し、魂が静まるのを感じました。静まって神様と向き合うことの大切さも学びました。

いつも思い浮かぶのが、下記の聖句です。

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。(詩篇19:1-4)

数年前、映画『パッション』を観た時本当に言葉を失いました。私は個人的に、楽しいこと喜ばしいことに目を向け喜び踊るのも良いのですが、私が救われ今幸せでいられるのは、全て主の十字架の苦しみが土台となっていることを、受難週間に限らず、決して忘れてはいけないと思っています。

下記は聖歌157番「われいのちを」の歌詞です。イエス様が私(達)になして下さったことに対して、何をもってお答えすることが出来るのでしょうか。

  • 我命をなれに与え 血になが身を清くなして 死とよみの手より なれをときぬ いかなるものもて なれこたえし
  • 我は父の神の元を 去りて暗き地に降れり 栄えも位も 我捨てたり 何ものを捨てて なれこたえし
  • なが罪ゆえ我は打たれ なが不義ゆえ我砕かる 十字架の悩みは なが為なり いかなることもて なれこたえし
  • 全き救い愛と赦し 我は買いてながものとす この良き賜物 受けしなれは いかなるこたえを 我になすや