HP「Seeking His face...(主の御顔を慕い求めて)」へ/


Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


祈りはきかれる

(暫定的にこのブログを使ってみようと思います。当面HPの日記と同じものを掲載し、最終的にどちらか一つに決めます。)

何年も前に、あるクリスチャンの日記に『神様は何でも自分の願いを叶えて下さる』と書いてありました。又ある人の掲示板では『神様は何でも願いを聞いてくれるって言っているのに、何で自分の祈りは答えられないんだ』と文句を言っている人がいました。ここで言う「願い」と言うのは、自分の希望・願望全てと言うニュアンスです。私はこれらを読んで、神様は自分の好き勝手な願いを何でもかんでも聞いて下さる、御利益の神様ではないと言いたかったです。神様は自分の欲望願望全てを自動的に叶えて下さる方ではありません。神様は人間にコントロールされる方ではありえません。イエス様のお名前で祈る祈りは確かに聞かれます。ここで言うところの「聞かれる」と言うのは、神様は私たちの祈りに耳を傾けて下さっていて、遅かれ早かれ必ず答えを下さると言う意味です。私達の祈った願いが主の御心にかなった願いであれば、そのまま叶えられることでしょう。でも、それとは反対に、神様からの答えが自分の願いとは正反対かも知れません。それで、祈りが聞いて貰えないと不平不満を言うのはおかしいのです。何故ならば、祈りの答えは出ている=祈りは聞かれていると言うことなのですから。


私の長い信仰生活の中で、祈った心の願いが必ずしも主の御心や御計画と一致するとは限らないのを体験して来ました。私は目先のことしかわかりません。いえ、一秒先のことだってわかりません。でも、主は先々まで御存知の方、私にとって何が最善であるかを御存知の方です。だから、祈る時は、主を100%信頼して全てを委ねて祈ることが出来るのです。イエス様は、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(ルカ22:42)
と祈られました。これはお祈りのお手本ではないでしょうか。お祈りは漠然としたものではなく、自分の願いを具体的に祈ります。しかしながら、『わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください』なのです。



人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。(箴言19:21)


あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。(箴言16:3)


わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。富と誉とはわたしにあり、すぐれた宝と繁栄もまたそうである。わたしの実は金よりも精金よりも良く、わたしの産物は精銀にまさる。わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み、わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。(箴言8:17-21)