十数年前初めて秘書になって、付いたボスが意地悪な日本人でした。虐められたのは他の同僚もでしたが、最初この人は悪魔ではないかと思いました。(^_^;;毎日が戦場に出て行くようで、戦いそのものの毎日でした。エリコの城のまわりを七回まわるように、ボスの机のまわりをまわりながら祈ったり、「サタンよ退ち去れ」と祈ったりしていました。
今ならすぐにわかることなのですが、当時は、何でわざわざ神様がこんな所に私を送られたのだろうと理解出来ませんでした。毎日が緊張の連続でした。嫌な上司は人に不快感を与え、人の悪い所を引き出すような人でしたので、人に対して嫌な感情を持ってしまう自分にも苦しみました。
何かの目的を持って私をこの世に送られた神様は、私の一生の御計画を持っておられます。主役が私で、脇役には良い人も悪い人も置かれます。必ずしも良い人が私にとってプラスになるとは限りません。難しい人間関係・環境、悪い人は私の心を掻き乱し、自分も気がつかなかった隠れていた欠点を知ることとなりました。
当時ではなく現在は、良く「私の心の奥深くまで聖霊の光で照らして下さって、私の気がついていない罪を現わして下さい。そして悔い改めが出来るように導いて下さい」と祈ります。こういう祈りは良く聞かれるものです。(^_^;;自分の欠点と向き合うことは辛いことですが、日々の悔い改めはクリスチャンにとっては重要だと思っています。
主は時として試練の中に私を置かれますが、それは、私の人格を練られ、信仰を増し加えさせて下さる為だとわかります。そして、何よりも主はもっと私と親しく交わり、もっと祝福を与えようとされているのだと信じています。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ5:3-5)