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Rejoice always,pray without ceasing,
in everything give thanks;
for this is the will of God in Christ Jesus for you.


(9)カイザリア(円形劇場・競技場・十字軍時代の都市の遺跡・導水橋)

カイザリア

カイザリアはとても印象的な場所でした。でも、旅行から11年以上も経っている為、その歴史的背景や聖書の中に出てくるこの地にまつわる様々な出来事の重要な部分の記憶が曖昧になっていました。中川先生の動画を観て、色々なことが思い出され感謝です。

カイザリアは地中海沿岸にあります。ヘロデ大王が、皇帝(=カイザル)アウグストのために前22年に建設。カイザリアという地名もカイザルの名前に因んで付けられました。


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遺跡訪問前のランチです。イスラエルの料理はどれも美味しかったです。

発掘されたローマ時代の彫刻です。

羊飼いが羊を背負っています。

円形劇場

イスラエルで最古のもの。3500席あり。中央には長官用の席がある。1960年代、イタリアの調査隊が発掘。

今でもここでコンサートが行われるとのことです。音響のことは覚えていませんが、このように円形劇場の真ん中に立って、アメージング・グレイスか何かを歌ってみた記憶があります。思わず誰もが歌ってみたくなる場所でした。^^

柱だけですが、宮殿だった所です。

ここが何だか分からなかったので拡大してみました。^^;競技場(ヒッポドローム):270mx45m、15,000人収容。映画『ベン・ハー』で4頭立て戦車の競技場面を思い出します。(聖地旅行の動画をご覧になるとその広さが分かります。)

ここでポンテオ・ピラトPontius Pilatus)の名前が掘られた石碑が発見された。これはレプリカで、オリジナルはイスラエル博物館に展示されています。石碑にはラテン語で「ユダヤ総督ポンテオ・ピラトは、皇帝テベリウスをたたえ神殿をカイザリアの住民に捧げる」と。

十字軍時代の遺跡

アーチ形が十字軍時代の特徴

ハドリアヌスが建設した導水橋。9キロ北にあるカルメル山の水をここまで運び入れていました。農業用と飲料水に分けていたそうです。

カイザリアは使徒行伝に何度も出てきますが、この地はキリスト教の異邦人伝道について大きな役割を果たしたところです。聖地旅行ハンドブックの一部、主にパウロの部分を時系列で下記に引用します。

伝道者ピリポの故郷。(使徒8:40、21:8)パウロはタルソへの途上ここに立ち寄った。(使徒9:30)コルネリオとその家族が回心し最初の異邦人信者となる。(使徒10:1~48、11:11)パウロエルサレムへの途上ここに立ち寄った。(使徒18:22)パウロはピリポの家に滞在した。(使徒21:8~16)パウロはここで投獄された。(使徒23:22~35)

パウロはここで三回裁判にかかった[フェリックス(使徒24:1~27)・フェスタス(使徒25:1~22)・アグリッパⅡ世(使徒25:23~26:32)]。パウロはここからローマに向かう。(使徒27:1)

60年、カイザリアのユダヤ人たちが殺された。ユダヤ人反乱の引き金となる。66年、一日で20,000人ユダヤ人たちが殺されたため、反乱がおこる。70年、テトス将軍は2,500人のユダヤ人の捕虜と猛獣とを戦わせた。ユダヤ人離散のきっかけとなった。

195年、イースターは日曜日に祝うとの決定がなされた。

その後、イスラム教徒の町となって(639年)衰退するも、十字軍によって町が復興(1101年)された。サラハディンが征服(1187年)クリスチャンの住民は殺害か、奴隷に売られた。1191~92年、第三回十字軍によって奪回。1252年、第六回十字軍のルイ9世(フランス)によって城壁が建設。その後長年に渡って町が征服、衰退、破壊されたが、1878年モスリムの移住者によって村が建設され、1948年まで存続。

現在は、ゴルフコースのある裕福な住宅地。(激動の長い歴史的背景がありますが、かなり端折りました。^^;)

p.s.

以上が9日間の旅行の6日目です。7日目と8日目は、クリスマスやイースターに何度もアップしたものが殆どですが、それ以外のもの(西壁、神殿の丘など)もありますので、再編集しアップすることにします。

 

・・・・続く

 

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