自分が体調を崩し始めた昨年の春頃から、癒しについて考える時間が増えました。大きな転機となったのが『みことばの力』という本に出会ったことです。今日16、7年前の日記に、癒しについての礼拝メッセージが書かれているのを読んで驚きました。
それはその本の内容に書かれていたことと一致し、今の私に語りかけているかのようだったからです。私は癌から解放されましたが、今もなお食事のお祈りの時やそれ以外の時でも、「主の打たれた御傷によって癒されました」等の御言葉を宣言しています。
(以下はメッセージの内容です↓)
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。(マタイ9:20-22)
この長血をわずらっている女は、イエス様は自分を癒して下さると自分のうちで知っていました。そして、心と思いを尽くして、彼女の病気の体をもってイエス様のもとに行き、イエス様の着物のふさに触れただけでしたが、それによって聖霊の力が彼女の体に流れはじめ、彼女を健康にしました。
私たちもこれと同じように、恵みの座で祈ってもらったり、自分で祈って、信仰によって病が癒されます。しかし、このいやしを堅く守っていないと、なくしてしまうことがあります。敵がいて、その癒しを盗もうとしているからです。癒された後、たいていの場合必ず症状が戻ってきます。それは、家に帰り、一人になると、信仰を持った人がいなく、疑いや不信仰に取り囲まれているからです。
最初の症状が戻ってくると、「イエス様は私を癒して下さったと思ったのに、多分癒されていなかったのかも知れない」と思う時がありますが、そう言った時、「病気の症状を私にもってきて下さい」と言ったことになるのです。悪魔にドアを開くことになります。悪魔に対して神の言葉で立ち向かい、去るように命令する代わりに、悪魔に負けてしまうのです。神の言葉を何一つ土台としていないからです。
持続的な癒しは、自らの信仰を土台としなければなりません。本人がみ言葉を土台として、自分の信仰を確立しなければ、癒しを保ち続けることはできません。新しく救われた人が信仰を保ち続けるためには、み言葉に根ざさなければならないのと同じように、癒された人が癒しを保ち続けるためには、み言葉に根をおろす必要があります。
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。(マタイ7:24-27)
自分の感情や感覚より上にみ言葉を置いて行うことが、岩の上に家を建てることなのです。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
(イザヤ53:4)
これは、イエス様が病と悲しみを背負って下さったので、私たちは病を負う必要はないということです。あなたがイエス様の打ち傷によって癒されたことを知り、イエス様が私達の病を負い、悲しみを背負って下さったことを知り、私たちのわずらいを身に受け、病を背負って下さったことを頭だけではなく心で理解し、イエス様の御名に力と権威があることを知るならば、悪魔はあなたに何の力も無くなります。
症状が戻ってきても恐れる必要はありません。悪魔に対して、「私の体から出て行け」と言うと、悪魔はあなたから逃げ去ります。悪魔はしつこく戻ってきて病気の症状を持って来ようとしますが、神の言葉があなたの心の中にしっかりと築かれており、内なる意識の一部となるまでみ言葉を心の中にたくわえるならば、いつも悪魔を追い払うことができるようになります。
しかし、サタンはそれでもしつこく、これでもか、これでもかと病気の状況証拠を持って来ます。そして、症状を私たちに受け入れさせて、祈っても結局癒されないと思わせて、信仰を取りに来ます。そのしつこさに負けて病気を受け入れてしまうのです。
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 (ペテロ第一2:24)
と書いてありますが、これは、イエス様はすでに癒して下さっていて、これから癒される必要はないということです。私たちはそれを受け入れ、イエス様の打ち傷によっていやされていると言い、それを保っていればよいのです。
木を枯らせるためには根を切りますが、根を切られた木の青葉は茂っていても、次第に枯れていきます。それと同じように、イエス様の打ち傷によって癒されていると自分で言うことは、その病気の根を切っているのと同じです。サタンは、私たちに色々な病気の霊の種を持って来て蒔き、ある程度までは育ちますが、屋根の上のといの草のように、じきに枯れてしまいます。土壌の悪い所に、いくら作物を植えても育ちません。作物が成長するのには、土壌が大切なのです。
イエス様の打ち傷によって癒されていると口で言うことは、病気の霊の種が育たない土壌にしているのです。サタンが来て、しつこくいくら蒔いても、決してそれ以上成長しないで、途中で枯れてしまいます。
日常生活で、胃に何かしこりがある、出血があった、膝が痛くて歩けない、腰が痛い、頭痛がする、心臓が痛い、こういう症状をサタンが持ってきますが、イエス様の打ち傷によって癒されていると言っていると、それ以上病気は成長せず悪くはなりません。症状はあっても次第に枯れていきます。病気の悪の種にとって悪い土壌ですので、成長できないのです。そして、病気の霊を見破ることができます。神のいのちと思い、神の感情と力とは、み言葉の中に宿っています。
というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。(ヘブル4:12)
悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。(ヤコブ4:7)
悪魔から来るものに対抗することは、悪魔に立ち向かうことなのです。疑いが来れば、「私は疑いを持つことをしない」と言わなければなりません。病気が来れば、「私は疑いを持つことをしない」と言わなければなりません。病気が来れば、イエスの御名によって追い払います。私たちにはその権限が与えられています。病気は神からのものではありません。病気は祝福ではありません。神様は私たちに病気を与えることはしません。病気は悪魔が持って来るのです。
p.s.
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